沢木耕太郎の著書「1号線を北上せよ」を読んで以来、もしベトナムに行くことがあれば絶対行きたいと思っていたバーがある。
それは1925年創業の老舗ホテル、マジェスティックにあるオープンエアのバーだ。
リバーサイドに建つこのホテルは、客室からはもちろん、バーからもサイゴン川を一望することができる。
著書によれば、沢木氏はこのホテルに宿泊していたらしく、景色に魅了されたのか何度も訪れていたらしい。
彼の本を読んだことがあれば共感してくれる人もいるのではないかと思うのだが、あの沢木耕太郎が、いわゆるランドマーク的な高級ホテルから見える景色に魅了されるとはどんなものなのだろうかと非常に興味を覚えたのだ。
数年後。念願叶って私が実際にマジェスティックホテルを訪れたときは、新しく最上階にも別のバーができていた。高いほうが眺めが更に良いに違いないと思い、そちらに行くことにした。
ホテルのロビーに着くと、光沢感のあるレモンイエローのアオザイを着た女性が現れ、流暢な英語と洗練された振る舞いで、バーがある新館のエレベータまで案内してくれた。
最上階の8階に到着し、角を曲がるとバーのエントランスがあった。これまたいかにも洗練された雰囲気をまとったウェイターが現れた。身に着けているシャツには、しわ一つ見当たらなかった。
訪れた時間が早めだったからか、まだアウトサイドのテーブルには余裕があった。確かに素晴らしい眺めだ。
はやる気持ちを抑えながら、サイゴン川が一番よく見えそうなテーブルを選んだ。ドリンクメニューには魅力的なカクテルが並んでいたが、迷った末にサイゴンの名前のついたカクテルを注文。気持ちが少し落ち着いた所で、改めて辺りを見回してみた。
これはホーチミンに着いた時から感じていたのだが、雨期のためか暑くも寒くもなく、吹く風がとても心地良い。
対岸に見える看板のネオンとクルーズ船の明かりが眩く、行き交うバイクの物凄い騒音は、不思議と不快に感じることはなく、むしろ素敵な演出のように思えてくる。
「みんな生きてるな。」心から沸いた言葉だった。
そして意外なことに、1週間ほど過ごしたベトナム滞在最後の夜だったにも関わらず、また、いわゆる混沌とした典型的ベトナムの雰囲気とは全く異なった、清潔で洗練された場所にいたにも関わらず、自分は今ベトナムにいるのだと一番実感した瞬間だった。
おこがましいながらも、少しだけ沢木耕太郎の思いに近づけた気がした。