私の母は、現在グループホームにお世話になっています。
15年程前に父が他界して以来独り暮らしをしていた母が、関節リウマチの悪化などから自立が難しくなったため、実家の近くで縁のあったグループホームに入所したのです。
私はそのことにずっと罪悪感を抱いていました。
どちらかというと、私は子供の頃から母となかなか理解し合えないところがあり、常に微妙な距離を保ってきました。そのため、抱いた罪悪感も複雑で屈折したものでした。
それは血のつながった家族として抱いている罪悪感というよりは、人としてその立場にいるのならやるべきことなのに、していないという社会的罪悪感のようなもので、矛先は母でも親族でもなく世間に向けられていたのです。
母がグループホーム入所後に初めて訪れた年末年始も、母のことを思い出すと胸が痛みました。
ところが、救いは思いもよらぬ形ですぐに訪れました。ある人のコラムに答えを導く言葉があったのです。
「目を閉じて座ると、そこに存在するのは個としての私であり、娘いうアイデンティティーはどこかに消えている。
そこにくつろぐとき起きるべきことが起きる。そういう生を生きてきているから、こんな私でもまともでいられる。」と。
それを読んですぐ思い出しました。以前同じようなメッセージを受け取っていたことを。
更にさかのぼること1年程前。
あるヨガセラピーのクラスに参加したときです。
長い間深いところで抱えていた罪悪感が、表面に出てきてくれたと感じたことがあります。
長年ヨガをやっていて、涙がこぼれたのは初めてのことでした。
それはスプタバッダコーナアーサナ(合蹠(がっせき)のポーズ)の最中でした。
誘導に導かれながら、実は今いるのは都内某所のヨガスタジオではなく、実は今は土曜の昼下がりでもなく、実は今ヨガをしているのでもなく、実は私は私でないかもしれない・・・
とイメージしていくうちに、自分が何ものでもない、宇宙に存在するエネルギーなのだと感じた瞬間がありました。
すると胸がじわーっと暖かくなり、目から涙があふれてきたのです。
反射的にあれこれと涙が出た理由を考えそうになったのですが、しばらく感情に身をゆだねてみようと思い直しました。
しばらくして自然に湧いてきた感情は「ずっと重かったんだ」と私に教えてくれました。
人はあらゆる他者を通して自己が形成されます。
私は○○(名前)である、私は□□の子供である、私は△△(職業)である・・・というように。
それらのことがずいぶんと私を重くしていたようです。確かに重かったです。勝手にいろいろ背負ってました。
でも、自分を社会的に形成する「何か」である前に、私はただ「エネルギー」なんだと感じたことで、とても大切な気づきがありました。
「手放していいんだよ。委ねていいんだよ。」と。
なんだかとても楽になりました。
股関節には感情が宿るといいます。
スプタバッダコーナアーサナ(合蹠(がっせき)のポーズ)をとることで、そこに閉じ込めていた感情を引き出すことができたのかもしれません。
コラムの言葉をきっかけにヨガでの経験に改めて気づいてから、母への罪悪感も次第に淡いものへと変化していきました。
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