伊達男に一杯おごってもらった翌日。
昨夜の宣言通りに滞在を延長することにした姉とホテルをチェックアウトし、イートンセンターにある観光案内所でB&B(ベッド&ブレックファスト)情報を調べた。B&Bならホテルに泊まり続けるより宿費の節約になる。
思いのほか時間がかかったが、暗くなる寸前にようやく宿が決まった。フランス語圏にあたるケベック人をびっくりするくらい嫌悪する、フランスからの移民夫婦が経営する宿だ。
これまでホテルしか泊まったことのない私にとって、B&Bでの生活は予想以上に楽しくて何もかもが新鮮だった。
宿泊客用の部屋がある2階へ案内されると、空いている部屋ならどこに泊まってもいいよと言われ、4つあるうちの黄色のインテリアを基調とした可愛らしい部屋に決めた。
渡された鍵は、部屋のものだけでなく家の入り口のものまで付いていた。こんな風に宿泊客を信用してしまっていいものだろうかと少し戸惑ったものの、B&Bとはこういうものなんだと自分を納得させた。
毎日朝食の場で顔を合わせた空間音楽家(そんな職業があるのを初めて知った)のドイツ人が、自分が主催するコンサートに誘ってくれたり、健康マニアのオーナーと日本の健康食談議に講じたり、飼っている猫と遊んだりしているうちに、トロントに到着した当初の暗い気分はすっかり吹き飛んでしまっていた。
家捜しは相変わらず苦戦していたが、B&Bのチェックアウト2日前に直接押しかけた物件のオーナー(日系人のおじいちゃん)の同情を買い、「電話で会う約束をしている人が明日来るけど、お姉さんにも会って身元もしっかりしてそうだし、即決してくれるならあなたに貸してあげるよ。」と言ってくれた。
ようやく最初の目的を果たして気持ちが落ち着いた私たちは、ブロアー通りにあるカナダが誇る数少ないファッションブランド、クラブ・モナコの本店に行ったり、お土産の定番であるこれまた数少ない自慢ブランドMACで化粧品を買ったりして残りの時間を過ごし、ついに姉の帰国日を迎えた。
友達のような関係でもある彼女とのしばらくの別れは悲しいし、明日から異国の地でひとりぼっちになる不安もあるしで、空港まで見送りに行った帰りのタクシーの中で不覚にもおいおいと号泣してしまった。タクシーの運転手に到着ぎりぎりまで慰められ、また荷物を預けていたB&Bのオーナーには、困った時はいつでも来るんだよと励まされた。
この時、まさかこれからの1年間、1度もホームシックにかかることなく過ごすとは、そして帰国時に空港の出国ゲートで日本に帰りたくないと号泣することになるとは夢にも思っていなかった。
さて、家に着いた私は、しばらくの間「無」になっていた。
明日から何か予定があるわけでもなく、知り合いもいない。でも今思い返せば、この時間があったからこそ後々のかけがえのない体験を手に入れることができたのかもしれない。
人間というものは、どう現実から逃げようと思っても不可能なとき、「もうどうにでもなれ」とやけっぱちな気持ちになる。その瞬間すっと心が透き通り、前方にある一筋の光を見出すことができるものなのだ。